不安はあなたの敵じゃない——キルケゴールが教えてくれたこと

不安はあなたの敵じゃない キルケゴールが教えてくれたこと

朝、母から電話があった。

内容はここでは書かない。ただ、電話を切ったあと、胸のあたりにざわざわとしたものが残った。

親子関係というのは、どこの家にもそれぞれの複雑さがある。愛があるからこそぶつかる。距離を置きたいのに、気になってしまう。そういうものだと思う。

そんな朝に、ふとキルケゴールのことを思い出した。


動揺の正体を、見る

若いころのぼくは、動揺したとき、それを別のものに変換していた。

怒りに変えて相手にぶつけるか、都合よく解釈してごまかすか、享楽の中に紛れ込ませるか。20代のぼくは特に、刹那的な生き方の中にそういう感情を押し込んでいた。

でも、そういうことを繰り返していると、心の深いところが少しずつ傷ついていく。それが積み重なると、やがて体に不調として現れる。心が「その生き方ではいけない」と教えるのだ。

病気をして、そのことがわかった。

それからは、動揺したとき、逃げずに向き合うようにした。まず正体を見る。感情を脇に置いて、冷静に分析する。すると決まって、正体は自分のエゴだとわかる。人間関係のトラブルから生まれる怒りや動揺を、人は相手のせいにしがちだ。でも根っこにあるのは、自分のエゴが不安を感じているだけのことが多い。

はやま

正体がばれると、エゴはおとなしくなる。「ばれちまったか」という感じで(笑)。そういうとき、瞑想がとても役に立つ。ヨガマットなんていらない。目を閉じて、呼吸を整えて、頭をからっぽにする。それだけでいい。

キルケゴールの「三段階」という地図

デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴール(1813〜1855年)は、人間の生き方には三つの段階があると言った。

第一段階・美的実存
快楽を求め、退屈を嫌い、感覚の世界に生きる。刹那的で、自由に見えるが、じつは気分や欲望の奴隷になっている状態。

第二段階・倫理的実存
道徳や義務をまじめに守って生きる。「すべきこと」「あるべき姿」を軸にする段階。ただし、四六時中いい子でいようとして、中年以降に息切れ、倦怠感に襲われることが多い。

第三段階・宗教的実存
理性や義務の上に、自分の力では説明のつかないものへの信頼を置く段階。

この地図を初めて読んだとき、ぼくは苦笑した。

20代のぼくは、まさに第一段階を地でいっていた。享楽的で刹那的な日々。今さら詳しくは書かないが、あまり褒められた生き方ではなかった(笑)。

30代になると、知的探求心に火がついた。初めて哲学書を読んだのもこの時期だ。道徳的に生きようとし始め、知識やスキルを身につけることに没頭した。キルケゴールの言う第二段階だ。

そして40代。病気をして、ヨガに出会った。

それからじわじわと、「自分がコントロールできることなど何もない」という感覚が育ってきた。自分は大きな世界のちっぽけな一部で、すべては大きな力によってあらかじめ動いている——そういう諦念とも信頼ともつかないものが、腹の底に静かに根を張るようになった。

はやま

キルケゴールはこれを「跳躍」と表現した。階段を上るのでなく、ある日突然、飛ぶ。この言葉がいい。ぼく自身の経験を振り返ると、たしかに「努力して移行した」という感じではなかった。病気や出会いや、思いがけない体験が、気づいたら次の段階へ連れていっていた。

不安は、まだ生きているサイン

キルケゴールはこう言う。不安を感じるなら、希望がある、と。

不安は弱さじゃない。自分の実存的な状況——つまり、自分の人生を自分で選ばなければならないという現実にちゃんと向き合っているサインだ。

ちなみに、理由もなく心がざわつく状態には別の説明もある。原始時代の人間にとって、不安は大切な自己防衛手段だった。そのシステムが今も残っている。あるいは現代人に多いのが、腸内環境の乱れによるセロトニン不足だ。腸と心は深くつながっている。

でも今朝のぼくのざわつきは、そのどちらでもなかった。

正体は、エゴだった。大切な人を傷つけたくない、でも自分の気持ちも守りたい——そのあいだで揺れている、ただの人間のエゴだった。

正体がわかれば、あとは呼吸するだけだ。


目を閉じて、息を整える。

ばれちまったエゴは、やがておとなしくなる。

今日も、いい一日を。

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