エゴ郎と和解した話——幸せについて、いま思うこと

エゴ郎と和解した話 幸せについて、いま思うこと

哲学に、いまはあまり価値を感じていません。

こんなことを書くと、「哲学の記事をたくさん書いているじゃないか」とつっこまれそうですが(笑)、本音です。

人間は何のために生まれてきたのか。わたしの答えはシンプルです。幸せになるため。ただそれだけです。

では幸せとは何か。

欲求には果てがない

金銭欲、名誉欲、自己実現欲求、承認欲求——これらは形が違うだけで、根っこは全部同じです。エゴです。知識欲も例外ではない。

人間の欲求には果てがない。何かを求めている以上、それがどんなに高尚な欲求であっても、完全に満たされる日は死ぬまでやってきません。「もっと、もっと」という声は、満足するたびに少し大きくなる。

若いころのわたしは、自己実現こそが最も高尚な生き方だと思っていました。金や出世を求めるのは低俗で、知識や表現を追いかけるのは崇高だと。でもある日気づいた。自己実現欲求も肉欲も、根っこは同じエゴだと。上も下もない。どちらも単なる欲求です。

はやま

小説家を目指していたころ、自分の書いたものを評価されたくて、大勢に認められたくて書いていました。いまはもうそういう欲求がほとんどない。あのころの自分を恥ずかしいとは思わないけれど、ずいぶん遠くに来たなあとは思います。

「足るを知る」ということ

ではどうすれば幸せになれるのか。わたしが出した答えは、「足るを知る」ことです。

毎日起きて、食べるものがある。その日やることがある。夜は清潔なベッドで眠れる。家族がいて、いろいろトラブルはあっても、なんとか暮らしていける。それで十分だと気づくこと。

他人と比較しない。メディアの脅かしに振り回されない。「いまここにある」そのこと自体が、すでに奇跡なのだと、頭ではなく深いところで理解すること。

毎朝、コーヒーを飲みながらベランダで一服します。空を見上げて、「今日もなんとか生きています。ありがとうございます」と、心の中でお天道様に手を合わせる。たったそれだけのことですが、これがわたしの一日の始まりです(笑)。

思考はエゴそのものだ

ただ、「足るを知る」という感覚は、思考の外にあるものです。

人間の脳が進化したのは「自分を守るため」「欲求を満たすため」です。だから思考は本質的に利己的にできている。頭に思考の種がふっと湧いて、それを展開していくと、エゴがむくむく起き上がってくる。

じゃあ思考しないでいられるか。それはできません。朝から晩までベランダに座っているわけにはいかない。みんな社会の歯車だから(笑)。生活費を稼がなければならない。

そこで次の問いが立ち上がってきます。エゴが利己的になりすぎないようにするには、どうすればいいか。

エゴ郎をだます

わたしの答えは、エゴをだますことです。

利他的であることが、自分にとっていちばん心地よい状態をつくるように、エゴに考えさせる。こんなふうに。

自分の近くにいる人たちがみんな笑っていたら、自分もハッピーだよな。その役に立てたらこっちを見て笑ってくれる。最高じゃないか。欲望を追いかけて満足したことなんか、過去に一度もなかっただろ。人を傷つけて何かを得ても、罪悪感から幸福なんて手に入らない。過去を振り返っても、そういうことでいい気分になったことは一度もなかった——と。

そうしたらうちのエゴ郎は「なるほど」と言いました(笑)。

はやま

利他と利己は対立しているように見えて、うまくやると同じ方向を向きます。「みんなが笑っていたら自分も幸せ」というのは、エゴを消すのではなく、エゴの向きを変えることです。消そうとすると反発する。向きを変えると、意外と素直に従う。

それでも自己撞着は残る

こころの深いところでは、こう思っています。みんな、もうぜんぶそのままでいいじゃないか、と。エゴに振り回されて生きていても、それも天の意志かもしれない。知足の感覚を持てる人は持てばいい、持てない人はそれでいい。わたしが今こう考えるようになったのも、たまたまじゃないかって。

でもその一方で、浅い部分ではこうも思っています。「今だけ金だけ自分だけ」の空気が世の中を殺伐とさせている。それは教育やメディアや思考停止した大人たちの影響だ。せめて子どもたちには、まっとうな幸福感を渡してあげたい、と。

この二つは矛盾しています。でも、両方本当のことなので、どちらかを捨てられない。自己撞着を抱えたまま、今日もベランダでコーヒーを飲んでいます(笑)。

哲学は、卒業するためにあった

話を最初に戻すと——哲学にいまあまり価値を感じていない、と書きました。でも振り返ると、哲学やさまざまな知識と体験があったから、いまここにいる。

哲学は、卒業するためにあったのかもしれません。知識として外にあったものが、体験を通して内側に溶け込んで、気づいたら「考え方」ではなく「生き方」になっていた。

それはもう哲学とは呼ばないかもしれない。でもそれでいいと思っています。

はやま

こうやって書くことで、いつかどこかに収れんするのかもしれない。そんな気がしています。まとまりのない話ですが、読んでくれてありがとうございます。

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