哲学の本を読み始めたのは、たぶん40代になる少し前のことだった。
理由はシンプルだ。世界を理解したかった。人生の地図がほしかった。
古代ギリシャの哲学者たちが「世界の本質とは何か」と問い、ソクラテスが「どう生きるか」を街の人々に問いかけ、プラトンが「本当の美しさはイデアの世界にある」といい、アリストテレスが「いや、本当のものはこの手のなかにある」と反論する。
おもしろい。もっと読みたい。
ルネサンスに差しかかると、景色がまた変わった。中世の千年間、神学の陰に隠れていた人間が、ようやく表舞台に戻ってくる。スピノザが「すべてはひとつだ」といい、デカルトが「疑うことのできない私がここにいる」という。
まだ、ついていける。
ところが近代に入ったところで、ぼくは失速した。
はやま
ヘーゲルの弁証法。カントの純粋理性批判。思考の構造を、思考で解析する。そういう作業が延々と続く。
でも、ショーペンハウアーだけは違った。
『意志と表象としての世界』を読んだとき、頭をハンマーで殴られたような感覚があった。世界は「意志」の現われだ——盲目的で、目的もなく、ただひたすら存在しようとする意志の。人間も動物も植物も、みんなその意志に突き動かされている。
なぜ刺さったのかは、うまく説明できない。中身の細かいところはもう覚えていない。ただ、「ああ、そういうことか」という感触だけが、いまも残っている。
旅の終わりに、地図はなかった
ひととおり読み終えたとき、ぼくは放心状態だった。
頭のなかに明快な地図ができあがっているはずだった。世界を理解するための、ぶれない座標軸ができているはずだった。
でもそうはならなかった。
それもそのはずで、哲学者たちは2500年かけて、同じ問いに違う答えを出し続けてきた。「世界の本質は水だ」「いや原子だ」「いや精神だ」「いや物質だ」。「幸福とは快楽だ」「いや徳だ」「いや意志の否定だ」。
ひとつの思想に共感するたびに、景色が変わった。でも次の哲学者がまた景色をひっくり返す。旅が進むほど、地面が揺れる。
最後に残ったのは、問いだけだった。
はやま
遠回りして、ヨガに帰ってきた
答えが見つからなかったから、次は東洋哲学へ進んだ。
そこで「ああ、これだったか」と苦笑した。ひどく遠回りをしたな、と。
そしてもうひとつ気がついた。西洋哲学の中で自分が惹かれていた思想を振り返ると——スピノザの「すべてはひとつ」、ショーペンハウアーの意志の哲学、ストア派の「いまこの瞬間に集中する」——それらはみんな、東洋哲学のエッセンスを含んでいた。
ぼくはずっと、遠くに答えを探しに行って、出発点の近くに戻ってきたのだ。
ヨガのマットの上で体を動かしながら、「考える」のでなく「感じる」ことで少しずつわかってきたこと。それが、何十冊も本を読んでもわからなかったことの答えに、ずっと近かった。
だから、もし誰かに「哲学を学ぶべきか」と聞かれたら、こう答えると思う。
議論のための教養がほしいなら学ぶといい。
真理が知りたいなら、ヨガのほうがいい。
それでも、この旅に後悔はない。
2500年分の「問い」を知ることは、自分の問いを立てる練習になった。答えがないことに慣れるのも悪くない。そして何より、旅の途中で出会ったあの人たちのことを、ぼくはまだ好きでいる。
泥臭くて、真剣で、ちょっと滑稽な——あの古代ギリシャの哲学者たちのことを。
このシリーズでは、そんな哲学者たちとの旅の記録を、少しずつ綴っていきます。地図のない旅ですが、景色は保証します。
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