「あのひと、また海外旅行か」
スマホをスクロールしながら、ふとそんな思いがよぎる。
べつに羨ましいわけでも、妬んでいるわけでもない——はずなのに、なぜか胸のどこかがざわつく。一瞬だけ、自分の日常が色あせて見える。
そういう経験、ありませんか。
人と自分を比べてしまうのは、意志が弱いからでも性格が悪いからでもありません。わたしたちはみんな、物心ついたころからそうするように育てられてきたんです。
今日は、2000年以上前に同じ問いと向き合っていた哲学者たちの話をしながら、「比べること」について少し考えてみたいと思います。
比べることは、社会に仕込まれた習慣
テストの点数、運動会の順位、進学した大学、就いた仕事、結婚の早い遅い、子どもの育ち具合——。気がつけばわたしたちはずっと、何かと何かを比べる場の中に置かれてきました。
それだけじゃない。テレビや雑誌は毎日、誰かのきらびやかな生活を見せてくる。SNSでは、選りすぐりの「いい瞬間」だけが切り取られて流れてくる。見るつもりがなくても、目に入ってくる。
これだけの刷り込みの中に生きていれば、比べずにいるほうが難しい。
はやま
「比べてしまう自分がいやだ」と思う必要はないんです。そう感じるのは、ごく自然な反応なのだから。
問題は、比べることじゃなくて、比べることに支配されてしまうことです。
2300年前、樽の中に住んでいた男の話
古代ギリシャに、ディオゲネスという哲学者がいました。
彼の住まいは、大きな樽の中。持ち物はずだ袋と杖だけ。着るものはほとんどなく、食べるものは最低限。それでいて、彼は満ち足りた顔で毎日を過ごしていたという。
ある日、当時の世界の覇者アレキサンダー大王がわざわざ彼に会いに来て、「なにか望みはありますか。なんでもかなえましょう」と言いました。
ディオゲネスの返答は、
「そこをどいてください。日陰になっています」
世界のすべてを手に入れた男に、「日差しを返してくれ」とだけ言った。
笑えるようで、でもどこか痛快な話です。
ディオゲネスが属していたキュニコス学派の哲学者たちは、こう考えていました。地位も財産も健康でさえも、「運頼りのはかないもの」だ。そういうものに幸せを預けてしまうから、失うたびに苦しむことになる、と。
いつ失うかわからないものを必死に守ろうとしたり、持っていない人を羨んだりするより、手放してしまえば楽になる——。そう言いたかったのかもしれません。
「自分がコントロールできること」だけを見る
もう少し後の時代、ストア派という哲学者たちが同じ問いに別の角度から答えを出しました。
その中のひとり、エピクテトスはもともと奴隷の身でした。自由もなく、財産もなく、主人の気分ひとつで何もかも変わってしまう立場に置かれていた。そんな彼が行き着いた考えが、こうです。
人間を苦しめるのは出来事そのものではなく、出来事に対する自分の考え方だ。
他人が何を持っているか、どんな生活をしているか——それはコントロールできない。でも、それをどう受け取るかは、自分で選べる。
比べてしまうこと自体は止められなくても、「あ、また比べてる」と気づいて、そこで立ち止まることはできる。そしてその後、どう考えるかを選ぶことはできる。
はやま
比べることが完全になくなることはない、それでいい
正直に言えば、今でも完全にゼロではありません。
ふとした瞬間に、何かの情報がきっかけになって、無意識に誰かと自分を比べている。そして「あ、またやってる」と苦笑いする、そのくらいのことはあります。
でも、それでいいんだと思うようになりました。
人間はもともと、比べることで危険を察知したり、成長の方向を見つけたりしてきた生き物です。比べること自体が悪いのではなくて、比べた結果を「自分の値打ちの証明」にしてしまうことが苦しさの正体なんだと思います。
あのひとが何を持っていようと、あなたの値打ちは変わらない。
2300年前のディオゲネスも、奴隷のエピクテトスも、おそらく同じことを言いたかったのだと思います。言葉は違っても。
はやま
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