ニーチェ(1844〜1900年)とぼくには、ひとつ共通点がある。
古本屋でショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を偶然手に取り、読んだら虜になったという体験だ。
ニーチェは下宿先の古本屋でその本に出会い、ぼくは街の古本屋の棚でそれを見つけた。時代も場所も違うが、同じ本が同じように二人の頭をハンマーで殴った。それだけで、なんとなく気の合う友達のような親近感がある。実際に会ったら理屈っぽくて面倒くさい人かもしれないけど(笑)。
この記事の内容
「大地に忠実であれ」
ニーチェの言葉の中で、ぼくが一番好きなのはこれだ。
「大地に忠実であれ」
ニーチェがこれをどういう意味で言ったのか、正直なところよくわからない。おそらく「天国や神に希望を預けるな、今ここにある現実を生きろ」という意味だと思うが、ぼくはこの言葉を少し別の文脈で受け取っている。
山登りを始めてから、時々テント場に一人で寝るようになった。ほかの登山客が少ない夜、テントの中で横になっていると、なにやら名状しがたい安心感と満足感に包まれることがある。大きなエネルギーというか、力というか、意志というか——。そういうものの存在を肌で感じるのだ。
テントにガサガサと何かが近づいてくる音がして、ぎょっとして現実に引き戻されることもある。たぶん猪か鹿だ(笑)。
はやま

ニーチェとブッダ
ニーチェは古代インド思想に傾倒し、ブッダを尊敬していた。「ヨーロッパはまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」とまで言っている。西洋キリスト教文明が、本当に嫌いだったらしい。
ぼくもヨガをやり、仏陀の本を何冊か読んだ。仏教そのものにはピンとこないが、仏陀の言葉には含蓄がある。東洋の哲学は本物だと感じている。
そういう意味でも、ニーチェとは気が合う。
能動的なニヒリズム、という生き方
ニーチェの思想の核心のひとつに「能動的なニヒリズム」がある。
人間の存在に、あらかじめ決まった意味なんてない。神も救いを保証してくれない。それでも自分の力で人生を思い切り生きてやろうじゃないか。全面的に肯定するぞ。そういう態度のことだ。
ニヒリズムというと「何もかも無意味だ」という虚無的な響きがあるが、ニーチェが目指したのはその先だった。無意味であることを知ったうえで、それでもやる。
ずっと忘れられない言葉がある。
30代のころ、作家を志し習作を書きながら、生活費は雑誌の仕事で得ていた。そんなある日、女性写真家に取材した。ぼくより一回り年上の、知的で穏やかな人だった。戦争で埋められたまま放置された地雷によって命や手足を失った子どもたちを撮り続けていた人だ。
吉祥寺の小さなカフェで雑談していたとき、彼女は唐突にこう言った。
「あなたはまだ、何かを成し遂げなきゃならないって思ってる?」
優しい笑顔で。
そんな話は何もしていなかった。ドキッとした。なんでわかるんだ、と。
なぜ彼女がそう言ったのか、そのときはわからなかった。でも今ならわかる。彼女も同じ過程を通ったのだろう。
はやま
それでも、やってみた
20代のころ、会社を辞めて上京し、出版業界に飛び込んだ。文筆で生きていきたいという気持ちが抑えきれなくなって。
過労がたたったのか、病気になった。夢は、途中でへし折れた——わけでもないが、大きく形を変えた。
それでも後悔はない。
「あの時もっと反対していれば」と言う人もいる。でも、やらなければ今立っている場所に来られなかった。あの遠回りがなければ、食のことも、哲学のことも、ヨガのことも、何も知らないままだった。
能動的なニヒリズム、とニーチェは言う。
意味があるかどうかはわからない。でも、やってみる価値はある。
ぼくはそう思っている。今も。
ちなみにいま、このブログの執筆のほかに、食の実用書を書くことも頭の片隅にある。昔やりたかったことを、少し形を変えて。
「大地に忠実であれ」——ニーチェに背中を押してもらいながら。

この記事を書いたあと知ったのだが、ニーチェも登山が好きだったらしい。スイスのシルス・マリアという山岳地帯に毎夏のように滞在し、よく一人で山歩きをしていたそうだ。『ツァラトゥストラ』の着想もその山歩き中に得たとか。それなら「大地に忠実であれ」は、実際に土を踏んで山を歩いた人間の言葉だ。先の解釈も存外正しいのではないだろうか。ぼくのテント場の感覚と、案外近いところにいたのかもしれない。
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