子どもが熱を出した。あの日、無理に外出させたからだ。夫婦喧嘩になった。自分がひとこと余計なことを言ったからだ。仕事がうまくいかなかった。準備が足りなかったからだ。
「あのとき、ああしなければよかった」
原因と結果を結びつけて、そんなふうに自分を責める。
でも、本当にその「原因」は正しいのでしょうか。
ヒュームが「因果関係」に疑問を持った
18世紀のスコットランドの哲学者、デイヴィッド・ヒューム(1711〜1776年)は、わたしたちが当たり前のように信じている「原因と結果」という考え方に、根本的な疑問を投げかけました。
石を投げると落ちてくる。それを何度も見て、「重力という法則がある」と思う。でもヒュームはこう言います。わたしたちが経験したのは「石が落ちた」という事実だけで、「重力という法則」そのものを経験したわけではない、と。
「いつもそうだった」から「これからもそうだ」と思い込む——。それは経験から来る習慣であって、確かな法則ではないかもしれない。
もっと身近な例で言えば、四葉のクローバーを見つけたあとに幸運が舞い込んでも、そこに因果関係はない。黒猫が目の前を横切ったあと転んだって、黒猫のせいではない。ところが人間はつい、前後に起きた出来事を「原因と結果」として結びつけてしまう。
ヒュームはこれを「早合点」と呼んで、あらゆる迷信の種になると警告しました。
「あのせいで」は本当か
子どもが熱を出したのは、本当に外出させたからでしょうか。
その日すでにウイルスをもらっていたかもしれない。免疫が下がるタイミングだったかもしれない。外出しなくても、同じように熱を出していたかもしれない。
「前後に起きたこと」を「原因と結果」と決めつけるのは、人間の脳の癖です。とくに自分を責める方向に、この癖は働きやすい。
ヒュームが言いたかったのは「何も反省するな」ではありません。「早合点して、自分を不必要に責めるな」ということだと思います。
はやま
「わたし」も実は流れている
ヒュームはもうひとつ、おもしろいことを言っています。
「わたし」という変わらない自我があると、わたしたちは思っている。でも実際には——。
人間の心は劇場のようなものだ。さまざまな知覚が次々と登場しては去り、消えてはまた浮かびながら、際限なくいろいろなシーンを繰り広げている。
つまり「わたし」とは、固定した実体ではなく、瞬間瞬間の経験が流れていくものだ、ということです。自分の人格だと思っているものは、スクリーンに映る映像のようなもので、その映像は細切れの静止画の継ぎ足し。ほんとうはつながっていない。
おもしろいことに、2500年前のブッダもまったく同じことを言っていました。「今日のわたしは昨日のわたしではない」と。東西の思想が、時を超えて同じ結論に向かっている。
「変わらない自分」がいないとすれば、過去の失敗をした「自分」と、今ここにいる「自分」は、厳密には別の存在とも言えます。
疑うことが、自分を楽にする
ヒュームの哲学は、一見「何も信じられない」という虚無的な話に聞こえるかもしれません。でもわたしはそう思いません。
「当たり前」を疑う力は、自分を不必要に苦しめる思い込みから自由にしてくれます。
「あのせいで」という因果の鎖を、少し緩めてみること。「変わらない自分」という重荷を、少し下ろしてみること。
それだけで、今日がほんの少し軽くなるかもしれません。
はやま
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