もう少しお金があれば、もっと幸せなのに——。そう思ったことのない人は、たぶんいません。わたしも正直、あります。
でも不思議なことに、お金が増えても「これで十分」とはなかなかならない。少し増えると、もう少し欲しくなる。欲しかったものが手に入ると、また次のものが欲しくなる。
これはわたしたちが欲張りだからでしょうか。それとも、もともとそういうふうにできているのでしょうか。
エピクロスの「隠れて生きよ」
古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341〜270年)は、アテナイに「エピクロスの園」という学園を開きました。
その門にはこんな言葉が掲げられていたと言います。
よそ者よ、ようこそ。ここでは快楽こそ最高の善である。
「快楽が最高の善」と聞くと享楽的に聞こえますが、エピクロスの言う快楽はずいぶん地味なものでした。
友人と語らうこと。シンプルな食事をおいしいと感じること。余計な不安を抱えずに穏やかでいること。
それで十分だ、とエピクロスは言いました。豪華な食事も、広い家も、社会的な地位も——。そういうものを追いかけることは、かえって不安と疲労を生む、と。
彼のモットーは「隠れて生きよ」。世間の競争から少し距離を置いて、小さな幸せの中に豊かさを見つける。2300年前のミニマリストとも言えます。
欲望には「底」がない
19世紀のドイツの哲学者、ショーペンハウアーはこう言いました。
欲望が満たされると、すぐに退屈か新たな欲望が生まれる。
欲しいものが手に入った瞬間の喜びは、長続きしない。すぐに「当たり前」になって、また次のものが欲しくなる。これをショーペンハウアーは「欲望の車輪」と呼びました。
お金も同じです。年収が上がれば生活水準も上がり、支出も増え、「もう少し欲しい」がまたやってくる。研究でも、年収がある水準を超えると幸福感はほとんど増えないという結果が出ています。
欲望には底がない。だとすれば、欲望を満たし続けることで幸せを追いかけるのは——少し疲れる戦略かもしれません。
はやま
仏陀も同じことを言っていた
エピクロスやショーペンハウアーと同じことを、仏陀はもっとシンプルに言っています。
苦しみは、執着から生まれる。
お金への執着、地位への執着、他人の評価への執着——。執着があるから、手に入らないときに苦しみが生まれる。手に入っても今度は失うことが怖くなる。
仏陀の言う「執着を手放す」は、お金を持つなという話ではありません。お金に人生を振り回されるな、ということです。
東西の哲学者と仏陀が、時代も場所も違うのに同じことを言っている。人間がお金と欲望に振り回されやすい生き物であることは、2000年前からずっと変わっていないのでしょうね(笑)。
「足るを知る」は諦めではない
「お金より大切なものがある」というのは、お金がある人が言うきれいごとだ。そんなふうに言う人がいます。
でも、エピクロスは裕福な暮らしを捨て、質素な生活を選んだ。ショーペンハウアーも裕福だったが、その富が彼を幸せにしたわけではなかった。仏陀は王子の身分を捨てた。
彼らが言いたかったのは「お金を持つな」ではなく、「お金に幸せを全部預けるな」ということだと思います。
今日の夕飯がおいしかった。子どもが笑った。好きな音楽を聴いた。そういう些細な日常の中にある幸せをしっかり受け取れる感受性を磨いておくこと。
「足るを知る」は諦めではなく、幸せを感じる能力を育てることなのかもしれません。
はやま
補足:エピクロスは古代ギリシアの市民階級で、労働から解放されていました。
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