「NO」と言うことは冷たさじゃない——親や義親との距離感に悩むあなたへ

Epictetus and Marcus Aurelius

結婚が決まったとき、婚約指輪を買いました。

当時お金がなかったので、今の妻に「数万円のものでいいか」と確認したら「もちろん」と言ってくれた。ところがしばらくして妻から電話がきて、「お母さんと叔母さんに指輪を見せていたらどこかへ行ってしまった。探したけど見つからない。ごめん。でも二人とも、もっと高価なものを買ってもらいなさいと言ってる」と。

……失くしたのはどちら様でしたっけ。

いまでは笑い話として語れるようになりましたが、「他人の領域に無断で踏み込んでくる人」との関係に悩んだことのある方は、少なくないと思います。親、義親、職場の上司——。善意からであっても、土足で上がり込んでくる人はいる。

今日は「境界線を引く」ことについて、哲学の言葉を借りながら考えてみたいと思います。

「自分のもの」と「自分のものでないもの」

ストア哲学の思想家エピクテトスは、かつて奴隷でした。自分の意志とは関係なく、主人の命令に従って生きなければならなかった。

そんな彼が行き着いた哲学の核心が、これです。

自分のものと、自分のものでないものを区別せよ。

自分の意見、自分の選択、自分の感情の扱い方——これは自分のものです。

他人の意見、他人の期待、他人の感情——これは自分のものではない。

「親をがっかりさせたくない」「義母に嫌われたくない」——その気持ちはわかる。でも相手がどう感じるかは、最終的に自分のコントロール外にある。そこに全エネルギーを注ぎ込んでいると、自分が消耗するだけです。

「NO」と言うことは、冷たさではない

家を買ったとき、義母が自分の妹を連れてきて家中を案内して回り、最後は無断でわたしの書斎に入ってきたことがありました。

そのときはっきり伝えました。「ここは仕事場なので、次からは声をかけてください」と。

角が立つかもしれない。嫌われるかもしれない。でも伝えなければ、同じことが繰り返されます。そして何より、自分の領域を自分で守れるのは自分だけです。

「NO」と言うことは、相手を拒絶することではありません。「ここからはわたしの領域です」と知らせることです。

むしろ境界線を伝えないまま我慢し続けるほうが、じわじわと関係を蝕んでいく。いつか爆発するか、完全に心を閉ざすかのどちらかになります。

はやま

境界線を伝えたとき、相手が憤慨してそのまま縁が切れることもあります。でもそれはある意味、その関係がどういうものだったかを教えてくれる結果でもある。本当の意味でつながりたい相手なら、伝えた後のほうが関係は健全になります。

相手は変わらない、でも自分の反応は変えられる

「でも、相手が親だと難しい」——わかります。しがらみがある。罪悪感がある。世間体もある。

完全に割り切れる人は少ない。電話でやりあったあと、モヤモヤが残ることもある。それは当然です。

エピクテトスが言ったのも「感情的な反応を完全になくせ」ではありませんでした。最初の反応は止められない。でもその後、どれだけ引きずるかは選べる、ということです。

マルクス・アウレリウスも『自省録』にこう書いています。

朝、こう言い聞かせよ。今日もお節介な人、恩知らずな人、横柄な人、卑怯な人、やきもち焼きな人に会うだろう。でも彼らがそうなのは、善悪を知らないからだ。

怒りたくなるのは当然です。でも「この人はそういう人なんだ」と少し距離を置いて見られると、消耗が減ります。

距離を置くことは、愛情がないことではない

最後に、ひとつだけ。

親や義親との間に距離を置くことに、罪悪感を持つ必要はありません。

むしろ適切な距離があってこそ、関係は長続きします。近すぎると、お互いを傷つけ合う。

境界線は壁ではなく、扉です。「ここまでは入っていい、ここからは声をかけて」という印です。

はやま

親との関係は、今もときどき消耗します。でも以前よりは楽になりました。境界線を伝えるようになってから。相手が変わったのか、自分の見方が変わったのか——どっちなんでしょうね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です