世界の歴史上、アレキサンダー大王に「どいてくれ」と言い放った人間が、少なくともひとりいる。
ディオゲネス(紀元前400〜325年ごろ)という男だ。
持ち物はずだ袋と杖だけ
彼のプロフィールはこうだ。
住まいは樽。着るものは一枚の布。持ち物はずだ袋と杖のみ。食事は自分で調達。社会的地位はゼロ。貯金もゼロ。
そして本人いわく、この上なく幸せだった。
ディオゲネスが属していたキュニコス学派は、「幸福は外側にあるものに左右されない」と主張した。健康も、財産も、地位も、幸せとは無関係だと。それを頭で言うだけでなく、生涯をかけて実践して見せたのが、このひとだ。
はやま
昼間、灯を持って「人間」を探す
ディオゲネスの逸話は事欠かない。
昼日中、松明を手に街を歩き回り、「人間を探している」と言った。本物の人間——つまり、欲や見栄や虚飾を脱ぎ捨てて生きている人間——がどこにもいない、という皮肉である。
プラトンが「人間とは羽のない二足歩行の動物だ」と定義すると、翌日、羽をむしった鶏を持ってきて「これがプラトンの言う人間だ」と言い放った。
哲学者に対して、哲学者が鶏で反論する。これはもう哲学というより漫才だ。
はやま
アレキサンダー大王との対決
そしてあの有名な一幕。
世界征服の途上にあったアレキサンダー大王が、樽の前にいるディオゲネスを訪ねた。「何でも望みをかなえてやろう」と言った。大王の権力と気前のよさを、これ以上ない形で示した申し出だ。
ディオゲネスは答えた。
「そこをどいてくれ。日陰になっている」
アレキサンダー大王はこの答えに笑い、こう言ったという。「もし自分がアレキサンダーでなければ、ディオゲネスになりたかった」と。
世界のすべてを手に入れた男が、すべてを手放した男を羨んだ。
この話が2300年以上たった今も語り継がれているのは、何かを突いているからだろう。
はやま
「犬のような」哲学者たち
キュニコスというのは、ギリシア語で「犬のような」という意味だ。
社会の規範も因習も恥も気にせず、ただ本能のままに、自分の真実に従って生きる。そういう生き方が「犬のようだ」と揶揄されたのが、そのまま学派の名前になった。
ひどい言われようだが、当の本人たちは気にしなかった。そりゃそうだ。他人の評価を気にしないことが、そもそもの信条なのだから。
犬は地位も名誉も持たない。でも、犬が幸せそうでないことはあまりない。
ディオゲネスは、案外、正しかったのかもしれない。
ぼくには樽に住む気はないけれど、この男のことを思い出すと、何かがすっと軽くなる気がする。
「そこをどいてくれ。日陰になっている」
今日、誰かに言ってみたい気もするが、たぶん人間関係が終わる。
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