人生は苦悩に満ち、世界はいつも美しい——仏陀になれなかったアムロを思う夜

窓から夜桜を眺める男性

「2度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!」

上官ブライトに叩かれたアムロ・レイが、ふてくされながら吐き捨てる名台詞だ。ぼくと同じか少し上の世代の男性なら、だれもが知っている。

『機動戦士ガンダム』の本放送は1979年。わたしはまだ小学生にもなっていない。初めて観たのは再放送だったが、最初に観たときからこのアニメのただならぬ空気に気づいていた。

はやま

もちろんメカにも夢中でした。ガンプラが欲しくて模型屋に走ったものの、いつ行っても売り切れで。あの悔しさは、いまも鮮明に覚えています。でも何度も観るうちに、メカよりアムロという人間のことが頭から離れなくなっていきました。

いまのガンダムシリーズは、正直ほとんど観ていない。新しい作品が出るたびに話題になるのは知っているが、あの第一作の空気はもう、どこにもない気がしてしまう。

では、なぜあの作品だけが、何十年も経ったいまなお自分のなかに生きているのか。

それを考えていたら、思いがけないところに辿り着いた。仏陀である。

ヒーローではない主人公

ガンダム以前のロボットアニメには、ある共通の文法があった。選ばれた少年が、敵と戦うために用意された巨大ロボットに乗りこみ、正義のために戦う。主人公は勇敢で、迷わず、敵を倒すたびに成長していく、こんなパターンだ。

ところがアムロ・レイは違った。

なりゆきで開発中のガンダムのパイロットになる。その性格はとても内向的で、しかも思春期のただ中にある。戦闘におびえ、敵前逃亡してしまうこともあれば、味方の窮地を救い、自分を特別な人間だと錯覚し横柄にふるまったりもする。上官から叱責や懲罰を受け、目の前の戦闘をボイコットすることもある。

ヒーローなどではない。

アムロだけではない。『機動戦士ガンダム』の登場人物はみな、理想と現実のはざまで葛藤している。彼らは僕らと同じ血の通った人間なのだと感じさせてくれた。

ふつうの人間なのだ。

この作品では戦場での死も、ドラマチックに描かれない。アムロが密かに憧れていた女性将校マチルダは、敵のモビルスーツに操縦席を叩き潰されて、あっけなく逝く。最期の言葉もない。それでもアムロは『ヤマト』の登場人物のように、「大切なのは、戦いじゃなく、愛だ!」なんて叫んだりはしない。ただ呆然とするだけだ。

この「呆然とするだけ」というところが、ガンダムの核心だとわたしは思う。

自我というエゴの檻

アムロが苦しんでいるのは、戦争のせいだけではない。彼が本当に苦しんでいるのは、自分自身のせいだ。

理想の自分と、現実の自分のギャップ。「こうあるべき自分」と「こうしてしまった自分」との乖離。勇敢でありたいのに逃げてしまう。冷静でいたいのにキレる。誰も傷つけたくないのに傷つける。

ガンダムの世界だけの話ではない。

人間の自我は、もともとエゴとナルシシズムの塊だ。生きてきた時間の分だけ、そこにコンプレックスやトラウマが積み重なる。だから誰でも、多かれ少なかれ、アムロと同じ苦悩を抱えている。

「なぜあのとき、ああしてしまったのか」「なぜ自分はいつもこうなのか」。布団のなかでひとり悶々とする、あの感覚。あれはまさに、自我というエゴの檻に閉じ込められている状態である。

はやま

料理しているときにふと思い出す、昔言ってしまったひと言。あの瞬間になぜあんなことを言ったんだろう、と。誰にでもあると思うんですよね、ああいう「アムロな瞬間」が。

仏陀も、最初は「人生は苦悩だ」と言っていた

覚醒する前のゴータマ・シッダールタ(のちの仏陀)は、こう言った。

「人生は苦悩に満ちている。この世は穢土である」と。

若き日のシッダールタが見ていたのは、老い、病、死という人間の根本的な苦しみだった。豊かな王族として育ちながら、それらから目を背けることができなかった。

この苦悩の根っこを辿っていくと、仏陀は最終的に「自我」にたどりつく。自分と他者を分ける境界線——「わたし」という感覚そのものが、すべての苦しみを生みだしている、と。

アムロの苦悩も、突きつめれば同じところにある。「自分」という感覚が強ければ強いほど、理想と現実のギャップに苦しむことになる。「こうあるべき自分」を守ろうとすればするほど、現実の自分との摩擦が大きくなる。

ニュータイプとは何だったのか

ガンダムの後半、「ニュータイプ」という概念が登場する。

ひらたく言えば、第六感の進化した新人類だ。地球の重力の軛(くびき)から開放され、人類が宇宙で暮らすようになったとき、秘められた能力が開花するのではないか、というテーゼである。

アムロは作中、少しずつニュータイプへと覚醒していく。敵のパイロット、ララァとの不思議な交感。自分と外界の境界が溶けていくような感覚。言葉を交わさなくても、相手の内面が直接伝わってくるような体験。

東洋哲学の言葉を借りれば、これは「第六のチャクラが開く」体験に近い。あるいは禅でいう「悟り」の入り口のような状態、とも言えるかもしれない。

自我という壁が薄くなったとき、人は他者や世界との断絶を感じなくなる。「わたし」と「それ以外」の境界が溶けていく——。

覚醒した仏陀は、死の間際こう言ったという。

「この世は美しい」と。

同じ世界を見ながら、「穢土」から「美しい」へ。変わったのは世界ではなく、それを見ていた「自我」のほうだ。

ガンダムが描いたニュータイプの覚醒は、この東洋哲学の系譜に静かに繋がっている。富野由悠季監督がそこまで意図していたかどうかはわからない。でもそう感じずにはいられない。

アムロは完全には目覚めなかった

ひとつ、大事なことを付け加えておきたい。

アムロのニュータイプへの覚醒は、作中では完全なものにはならなかった。ニュータイプの能力に目覚めながらも、彼は最後まで苦悩し、迷い、ふてくされつづける。すっきりと悟った人間にはならない。

これが現実だと思う。

わたしたちのほとんどは、仏陀のように完全に覚醒したりはしない。自我の苦悩を抱えたまま、それでも少しずつ、自分の外側に広がる何かを感じながら生きていく。

自分のことがよくわからない——これはアムロだけの話ではなく、人間であることの本質的な条件なのかもしれない。

はやま

ガンダムを観るたびに、「ああ、自分も同じだな」と感じていました。理想と現実のあいだで右往左往して、自分を持て余して。でも人間ってそういうものだし、そこから目を背けないことが大切なんでしょうね。

いまのガンダムシリーズは観ていない、と冒頭に書いた。

あの一作目があまりに神がかっていたからだ。アムロは、人間の普遍の苦悩を背負って戦いつづけた。それで十分だ。続きは、わたしたち一人ひとりの日常のなかにある。


📝 この記事は「綴る」カテゴリのエッセイです。食やウェルネスとは少し離れたテーマですが、「自分とどう向き合うか」は、心身を整えることの根っこにある問いだと感じています。

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