アマゾンで新作デューン(『DUNE/デューン 砂の惑星』)を観始めて、すぐ飽きてしまいました。
映像は美しい。スケールも申し分ない。技術的には旧作の比ではありません。でも、なぜか続きを観たいと思えなかった。
なぜだろう、としばらく考えていました。
リンチ版デューンという、いわくつきの傑作
デューンの原作は、フランク・ハーバートが1965年に発表したSF小説です。宇宙を舞台にした壮大な叙事詩で、映画化は長年「不可能」とまで言われていました。それをデヴィッド・リンチが1984年に映像化した。
リンチはこの映画を気に入らなかった。外部からの圧力で編集を自由にできなかったためで、抗議の意思として監督名を「アラン・スミシー」という偽名にしています。映画史上もっとも有名な「怒りの変名」のひとつです。
それでも蓋を開けてみれば、どこをどう切り取ってもリンチ印の金太郎飴。砂漠の惑星に蠢く巨大な砂虫、幻覚めいた映像表現、人の精神そのものを象徴するかのようなキャラクターたち。不完全な傑作、とでも呼ぶべき作品でした。
はやま
スター・ウォーズの「血統」
デューン原作が後世に与えた影響は計り知れません。とくにスターウォーズでは、タトゥーイン(砂の惑星)、フォース(デューンにおける超能力「ヴォイス」)、救世主の覚醒譚——。ジョージ・ルーカスがデューンから多くの着想を得たことは、もはや公然の事実です。
SF映画史における両者の関係を、こんなふうに考えたことがあります。ロック史において日なたのビートルズがあり、日陰のドアーズがあるように、スターウォーズはSF映画のビートルズ、デューンはドアーズだと。
どちらが優れているという話ではありません。ビートルズなしにドアーズを語れないように(あくまでわたしの話ですが)、デューンなしにスターウォーズも語れない、そういう関係。
旧三部作には、何かがあった
もちろんスターウォーズは全作観ています。でも世代的に、やはり印象深いのは旧三部作です。
『新たなる希望』から『ジェダイの帰還』まで、あの三本には何かがありました。技術的には今と比べものにならない。CGもない、VFXも稚拙。それでも観終わったあとに胸の奥に残るものがあった。
フォースという概念が、単なる超能力の設定ではなく、人間の精神の深層を指し示しているように感じました。善と悪の二項対立に見せかけて、実はダース・ベイダーの内側にある葛藤——父と息子の話、闇と光が同じ根から生えているという話が骨格にあった。
あれはルーカスがデューン原作から受け継いだものだったのかもしれない、と感じます。
ドアーズとハクスリーの扉
ドアーズのバンド名は、オルダス・ハクスリーの著書『知覚の扉』から来ています。ハクスリーはその本の中で、メスカリン(幻覚剤)を服用した体験を記しました。知覚の扉が開き、世界の見え方が根底から変わる体験を。
デューンにも、霊薬スパイスを飲み干すことで覚醒を遂げる場面があります。リンチ版でカイル・マクラクランが演じたその瞬間と、ハクスリーの扉のイメージが重なるのは、偶然ではないと思います。
スターウォーズのフォースも、突き詰めれば同じところに繋がっています。人間の意識の奥底に眠る何かが目覚める、という物語は、神話の時代から繰り返されてきた人類共通の夢です。ユングならそれを集合的無意識と呼ぶのでしょう。
はやま
ハリウッドが失ったもの
ハリウッドの全盛期を知っている身には、最近の大作映画がどこか寂しく見えることがあります。
技術は上がった。予算も上がった。スケールも上がった。でも、スクリーンの向こうに「扉」を感じることが少なくなった。
もちろん例外はある。けれども全体として、安全な方向へ、確実に回収できる方向へ、映画が向かっているように見える。リスクを取らなくなった、と言い換えてもいい。
リンチが怒りながら作ったデューンや、低予算で荒削りだった旧スターウォーズには、何かを賭けている感じがしました。作り手の切実さが、フィルムに焼きついていた。それが今は薄い。
ハクスリーの「知覚の扉」を開けようとしているか、いないか——。乱暴に言えば、それが黄金期の映画と今の映画の違いかもしれないな、とわたしは思うのです。
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