「これは自分の考えだ」と思っていること、本当に自分の考えですか?
突然こんなことを言われても困るかもしれません。でも少しだけ、付き合ってください。
瞑想を続けていると、不思議なことに気づきます。頭の中に次々と湧いてくる思考やイメージをじっと観察していると、それが明らかにそのときの気分や感情によって変わっているのです。
気分がいいときは楽観的な思考が流れてくる。沈んでいるときは悲観的なものばかり。思考は、自分の意志とは関係なく、感情に引きずられている。
では、その感情はどこから来るのか。
感情は「腸」がつくっている
近年の研究で、感情と腸内細菌の関係が少しずつ明らかになってきています。
腸は「第二の脳」とも呼ばれ、幸福感に関わるセロトニンの約90%が腸で作られています。腸内細菌のバランスが乱れると、気分が落ち込みやすくなったり、不安を感じやすくなったりすることも、研究で示されています。
つまり感情は腸内の微生物たちが大きく関わっていて、思考は感情に左右されているとすると、「自分の考え」と思っていたものの多くは、腸内細菌が生み出した感情の産物ということになる。
なんだか、SF映画みたいな話ですが、これは哲学ではなく生理学の話です。
はやま
デカルトへの異議申し立て
17世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトはこう言いました。
我思う、ゆえに我あり。
「考えている自分がいる、だから自分は存在する」——哲学史上もっとも有名な言葉のひとつです。
でも、思考が感情に左右され、感情が腸内細菌に影響されているとしたら、「我思う」の主語は本当に「我」なのか、という疑問が浮かびます。
むしろこう言えないでしょうか。
我あり、ゆえに我思う。
先に「存在」があって、思考はその後からついてくる。「考えること」が自分の本質ではなく、考えるより前に「在ること」がある、そういう発想です。
思考を見ている「誰か」がいる
瞑想を続けていると、もうひとつ気づくことがあります。
頭の中に思考が湧いては消えていく。その様子を、静かに「見ている」視点があることに。
思考に飲み込まれているときは気づかない。でも少し距離を置いて観察できるようになると、「あ、いま悲観的な思考が流れてきたな」「また同じパターンだ」と気づける。
その「気づいている自分」は、思考そのものではありません。思考の外にいる。
はやま
ヨガ哲学が数千年前に言っていたこと
「思考を観察する意識」という考え方は、実は数千年前からヨガ哲学の中にあります。
サンスクリット語で「プルシャ」と呼ばれる「純粋な意識」——それは思考でも感情でもなく、ただ静かに在るもの。ヨガの修行はある意味で、その「本当の自分」を見つける旅でもあります。
仏教でも同じような考え方があります。瞑想の中で「無我」に気づく——「これが自分だ」と思っていたものが実は自分ではなく、その奥に別の何かがある、という体験です。
現代の脳科学や腸内細菌の研究が明らかにしつつあることを、古代の行者たちは身体で知っていた。そう思うと、人間の洞察力の深さに驚きます。
「本当の自分」は共感の中にある
では、思考でも感情でもないとしたら、「本当の自分」とは何なのか。
わたしはこう思っています。
目の前で誰かが泣いていたら、胸が痛くなる。子どもが笑っていたら、こちらまで嬉しくなる。嫌いな相手が苦しんでいても、心の深いところで何かが戒める。そういう、理屈より先にある感覚。
それは腸内細菌が生み出す感情とは少し違う、もっと深いところにあるものです。
共感——自分と他者を同じものとして感じる、その感覚こそが「本当の自分」に近いものではないかと思っています。
はやま
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