何のために生きているかわからなくなる——サルトルが言った、たった一つのシンプルな答え

何のために生きているかわからなくなる——サルトルが言った、たった一つのシンプルな答え

「なんのために、こんなに頑張っているんだろう」

子どもを送り出し、洗濯機を回し、仕事のメールを返す。気づけば夜で、また明日が来る。

忙しいのに、虚しい。充実しているはずなのに、何かが足りない気がする。

そういう感覚、ありませんか。

「何のために生きているかわからない」という問いは、弱い人間が持つ贅沢な悩みではありません。むしろ、ちゃんと考えられる人間だけが持てる問いだと思っています。今日は、その問いと正面から向き合った哲学者たちの話をしたいと思います。

人間だけが「なぜ生きるのか」と悩む

犬は「なぜ生きるのか」と悩みません。猫も、桜の木も、悩まない。

自分の存在の意味を問えるのは、人間だけです。

20世紀のフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルはそのことをこう表現しました。

人間は、意味のない世界に投げ込まれている。

生まれてきた理由も、生きる目的も、あらかじめ誰かが用意してくれているわけではない。人間はただ、この世界に「投げ込まれて」存在している——サルトルはそう言いました。

これを読んで「そんな絶望的な」と思うかもしれません。でもサルトルはここで立ち止まらなかった。

意味は、見つけるものではなく、つくるもの

サルトルの有名な言葉に「実存は本質に先立つ」というものがあります。

難しそうに聞こえますが、意味はシンプルです。

ハサミは、誰かが「切るもの」として設計してから作られます。目的が先にあって、存在が後からついてくる。でも人間は違う。まず存在して、それから自分が何者かを決めていく。

つまり——人生の意味は、どこかに隠れていて「見つける」ものではなく、自分の手で「つくる」ものだ、ということです。

「何のために生きているかわからない」という感覚は、まだ自分の人生の意味をつくっている途中だということかもしれません。

「自分らしく生きる」の重さ

ただ、サルトルの言葉には続きがあります。

意味を自分でつくらなければならないということは、自由だということです。でもその自由は、同時に重さでもある。

人間は自由の刑に処されている。

「仕事だから仕方ない」「周りがそうしているから」——そういう言い訳は、サルトルに言わせれば「自分から逃げている」ことになる。自分の人生の責任は、最終的には自分にしか取れない。

それは少し、荷が重い話でもあります。

はやま

でも、こう考えてみてください。「自由の刑」は、見方を変えれば「どんな自分にでもなれる」ということでもある。子どもを産んで「母」になった瞬間に、人生の意味が書き換わった、という人がいます。病気になって、はじめて健康のありがたさが人生の軸になった、という人もいる。意味はそうやって、生きている中で更新されていくものだと思います。

「なぜ生きるか」より「今日をどう生きるか」

サルトルより100年ほど前のデンマークに、セーレン・キルケゴールという哲学者がいました。実存主義の先駆者とも言われる人物です。

彼はこんなことを言っています。

書斎にこもって世界の意味を考えていても、自分の実存は体験できない。行動して初めて、重大な選択の前に立って初めて、人は自分の存在を感じられる。

「何のために生きているか」という大きな問いに、頭の中だけで答えを出そうとしても、たぶん答えは出てこない。

答えは、日々の行動の中にある。誰かのために料理をすること、子どもの笑顔を見ること、好きな音楽を聴くこと——そういう積み重ねの中に、気がつけば「自分にとっての意味」が育っている。

はやま

わたしはこの問いに、ずいぶん長い時間をかけてきました。闘病中にはとくにそうで、動けない日々の中で「自分はなんのために生きているんだろう」と何度も考えた。でも今思うのは、生きることに理由なんてなくていい、ということです。理由がなくても、人は誰かを愛したり、おいしいものを食べてほっとしたり、美しいものに心を動かされたりする。その積み重ねが、気がつけば「自分の生きる意味」になっている。難しく考えなくていい。幸せになりたいと思うことが、もうすでに答えだと思います。

「何のために生きているかわからない」と感じるあなたへ。

その問いを持っているだけで、もう十分です。答えは、今日の続きの中にあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です