小学校の低学年のころ、突然わかってしまったことがあります。
「自分もいつか、死ぬんだ」
それまでの自分は、なんとなく世界の主役でした。世界は自分を中心に回っていて、人生は自分が主演するドラマだった。ところがある日、その感覚がガラガラと崩れた。
主演ドラマ『一郎がゆく』から、突然わき役に格下げされたような感覚。「この広い世界の、ちっぽけな要素のひとつに過ぎないのが、ぼくなんだ」と気づいた瞬間の、あの息のできなくなるような心細さ。
木枯らしが吹きすさぶ、秋の夕暮れ時でした。あの日、子どもなりに初めて死を実感したのだと思います。
大人になっても、「死ぬのが怖い」という感覚を持ち続けている人は少なくないと思います。今日は、その怖さと少し向き合ってみたいと思います。
2300年前の哲学者が言った、逆転の論理
古代ギリシャに、エピクロスという哲学者がいました。
彼はアテナイに「エピクロスの園」という学園を開き、死への恐怖に苦しむ人々のもとに哲学を届けました。当時は宗教が混乱し、「死後に罰を受けるかもしれない」という不安が広がっていた時代です。
エピクロスはこう言いました。
死を恐れる必要はない。われわれが存在しているあいだ、死は存在していない。死が存在するやいなや、われわれはもう存在しないのだから。
つまり、死を経験できる「自分」はいない。死は自分に何も感じさせない。だから怖がる必要がない——という逆転の論理です。
理屈としてはわかる。でも「それで怖くなくなるか」というと、そう簡単でもない。頭と感覚は別物ですから。
生死の境をさまよって、変わったこと
わたし自身は今、死ぬことへの怖さはほとんどありません。
それは、長い闘病のなかで何度か死の淵に近づいたからだと思います。常人には耐えられないような肉体的苦痛をいやというほど経験し、「いっそ死んだほうがましだ」とは思いませんでしたが、「もう消えてなくなりたい」と何度思ったことか。
ただ、その体験が直接、死生観を変えたわけではありません。三途の川を渡りかけたとか、まばゆい光が見えたとか、そういうドラマチックな臨死体験があったわけでもない。
変わっていったのはもっとゆっくりと、でした。
ヨガや瞑想を始めたり、本をたくさん読んだり、いろんな思索を重ねたりしていくうちに——ある時、言葉にできないような確信がすとんと落ちてきた。思考の守備範囲を超えた、直感のようなものです。
はやま
「わからない」と言える正直さ
死後に何があるのか、誰にもわかりません。
輪廻転生を説く宗教もある。天国と地獄を説く宗教もある。「死んだら無になる」と言う人もいる。
どれが正しいのか、生きている間には確かめようがない。
エピクロスが言ったように「死んだら何も感じない」というのも、ひとつの答えです。でもそれもまた、誰も確認できない。
わからないことはわからない、と言える正直さ——それ自体が、死の怖さと向き合うひとつの方法なのかもしれないと思います。「わからない」を受け入れたとき、不思議と怖さが和らぐことがある。
怖いのは「死」より「死ぬまでの時間」かもしれない
長い闘病を経て気づいたことがあります。
人が本当に怖いのは「死」そのものよりも、「苦しみながら死ぬこと」や「やり残したことがある状態で死ぬこと」ではないか、ということです。
だとすれば、答えはシンプルです。今日を丁寧に生きる。会いたい人に会う。言いたいことを言う。やりたいことをやれるだけやる。
エピクロスも同じことを言っていました。「善は簡単に手に入る」と。難しい場所にあるのではなく、今この瞬間の中にある、ということだと思います。
はやま
子どものころの「主演ドラマから格下げされた」あの感覚は、実はとても大事なものだったのかもしれません。
自分はちっぽけな存在だ——そう気づくことが、世界の広さを感じる第一歩だったのだから。
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