みんな同じ源流の水を飲んでいた——スピノザとヨガと、朝のベランダの話

みんな同じ源流の水を飲んでいた——スピノザとヨガと、朝のベランダの話

スピノザの話をしようと思ったら、朝のベランダの話から始めなければなりません。

毎朝、コーヒーを飲みながら空を見上げて、「今日も生きています。ありがとうございます」と心の中でつぶやく。お天道様に手を合わせる、あの感覚。

これを誰かに言うと、「宗教的な人なんですね」と言われることがある。でも違う。特定の宗教を信じているわけではない。ただ、自分がこの広大な何かの一部であるという感覚が、朝の光の中でふっと訪れる。それだけのことです。

ところがこの感覚、17世紀のオランダの哲学者がすでに言語化していたのです。

スピノザが言った「神すなわち自然」

バルフ・スピノザ(1632〜1677年)は、ユダヤ教団から破門された哲学者です。理由は「危険思想」。彼が何を言ったかというと——

「神すなわち自然」

神は天上のどこかにいる人格的な存在ではない。自然そのものが神だ。宇宙のすべて、草も石も人間も、ひとつの大きな実体の現れにすぎない。自分もその連なりのちっぽけな一部だ——と。

教会が怒るのも無理はない(笑)。でもわたしにはすんなり入ってくる。朝のベランダで感じるあれが、まさにこれだからです。

はやま

スピノザを初めて読んだとき、「あ、これ知ってる」と思いました。知識として知っていたのではなく、感覚として知っていた。そういう読書体験はめったにないですが、スピノザはそうでした。

ヨガも同じことを言っている

ヨガの根底にある思想に「アートマン=ブラフマン」というものがあります。

アートマンは個我、つまり「わたし」のこと。ブラフマンは宇宙の根本原理、大いなる「一なるもの」です。ヨガが言うのは、この二つは本質的に同じだということ。個としての自分と、宇宙全体が、根っこでひとつにつながっている。

「神すなわち自然」と「アートマン=ブラフマン」——言葉は違いますが、言っていることは同じです。

そして日本人の自然観もそうです。八百万の神、山川草木に神が宿る。海にも、風にも、古い木にも。これも「すべてはひとつの大きな何かの現れ」という感覚から来ている。

東西も時代も違うのに、なぜこれほど似ているのか。

みんな同じ源流から飲んでいたのかもしれない

ひとつの仮説があります。これらは別々に生まれた思想ではなく、地下水脈でつながっていたのではないか、と。

紀元前327年、アレクサンドロス大王がインドまで遠征しました。それ以降、ギリシャとインドの間には確実に人と思想の交流がありました。ギリシャの哲学者たちがインドの賢者と対話した記録も残っています。

新プラトン主義の哲学者プロティノスは「一者からすべてが流出する」という思想を展開しましたが、これはインドのヴェーダーンタ哲学と驚くほど似ています。スピノザはこの新プラトン主義の流れを受け継いでいます。

そしてイエス・キリスト。聖書には12歳から30歳までの記録がほとんどありません。この「空白の18年」に彼がインドで修行したという説が根強くあります。証明はされていませんが、イスラエルはインドと地続きの文化圏に近い。影響を受けていても不思議ではない。

プラトンのイデア界(感覚を超えた永遠の真実の世界)にも、わたしは同じ匂いを感じます。

はやま

「源流はひとつだったのかもしれない」というのは、わたしの直感です。証明はできない。でも、東西の賢者たちが独立に同じ場所にたどり着いたにしては、似すぎている。地下水脈のようなものが、確かにあったと思っています。

感受性の高い人間は、時代を超えて同じものを見る

もうひとつの可能性もあります。源流がひとつだったのではなく、感受性の鋭い人間は時代と場所を超えて、独立に同じ真実にたどり着く、という考え方です。

どちらが正しいかはわからない。でも、どちらであっても結論は同じです。

「神すなわち自然」という感覚は、人類の最も古く、最も普遍的な気づきのひとつなのだと思います。

朝のベランダで空を見上げて感じるあれは、スピノザが感じたものと、ヨガの賢者が感じたものと、イエスが感じたものと、日本人の先祖が感じたものと——たぶん、同じものです。

哲学書を開かなくても、毎朝空を見上げればいい。それだけで、人類の最も深い知恵に触れられる気がしています。

はやま

こういうことに気づいてから、「哲学を学ぶ」という感覚が薄れました。学ぶというより、思い出す、という感じに近い。どこかでもう知っていたことを、言葉で確認していくだけ、というような。

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